ガラケーといっしょ♪

ツイッターで言い尽くせない事などしたためます。

助っ人プレーヤー

❝加勢してくれる❞ っていう人に他意はないんだけれど、あと、(大谷選手に「二刀流」を持ちかけた)栗山監督が見込んだ選手なら、素人の勘ぐりで口を挟む事でもないんだろうけれど、でも、それほど ❝目くじらを立てて❞ (MLB の選手リストを隅から検索しまくって人材発掘しなきゃならないほど)勝ちに拘ることなのかな? と、ちょっと、WBC関係者の姿勢に引いてしまう。

例えば、「フットボール」や「ラグビー」の様に、世界標準のイベント競技の中で、ワールドクラスのプレイヤー達が、それぞれ拠点を定めて対抗し合っているのとは、WBCのトーナメントに求められる趣きは違うように思う。

ワールド・ベースボール・クラシックWBC)❞ って言っても、国民的に熱狂してるのは、たぶん、メジャー(MLB)か、プロ野球NPB)か、あと、韓国とか、台湾くらいだろうし、要は、❝「メジャー」と「プロ野球」のプレイ・スタイルが雌雄を決する❞ 舞台じゃないかと、個人的には感じている。

勿論、(選手の出自が様々な)フットボールのW杯にも、国ごとに独自の「型」があって、それも見どころの一つとも言われるけれど、殊(こと)、日本人にとっては、「甲子園大会」、「六大学野球」、「プロ野球」と、既に「国民的風物」とまで成した「伝統芸」を ❝世界の檜舞台で披露できる、またとない機会❞ なのではないかと思う。

イチロー」も「松井(秀喜)」も、「ダルビッシュ(有)」も「大谷(翔平)」も、一度は「プロ野球」の洗礼を受けて世界に踏み出した選手達であることを、もう一度噛み締めて、試合を見守りたく思うのは、私だけだろうか?(「ヌートバー」選手のことは、実際、殆ど知らないんだけど…)

不屈のキャプテン

代表のことを最も親身に考えているのは、やはり「岡田さん」なのかもと感じた。

❝「(ピッチサイドの) ディレクター」より「(ピッチ内の) コンダクター」❞

(ポテンシャルはともかく) 互角に対峙したクロアチアがブラジルを降(くだ)し、三位まで昇りつめた戦績を慮(おもんぱか) れば、代表の有り様は間違ってなかったと、ただ、傍(はた) から見ていても、ビハインドを追う/守る、猛々(たけだけ) しさにおいて、何かしらの差が確かに否めなかった。

因みに、同様のシチュエーションに、2015年・女子W杯 (ファイナル)「日本 vs アメリカ」が既視感として蘇って来た。❝4点ビハインド❞ のゲームを、キャプテンの「澤さん」が果敢に盛り立てていた勇姿に感銘を受けた。

翻って、男子代表の、現在・過去・未来に、そういう「コーディネーター」がいる/いただろうか、と思いを巡らせてみて、ふと、❝「熱血・ラモス (キャプテン)」と「カリスマ・(三浦) カズ (ストライカー)」の組み合わせって、どうだったんだろう?❞ むしろ、❝黎明期の「あの時期」にこそ、がむしゃらな「期待値」を抱えていたのかも?❞ などと(サッカー界では「トラウマ」かもだけど)勝手にトライアルしてみた。

ともかく、日本にも「キャプテンシー」な素地が無くはなかった訳で、将来、手塩にかけた代表チームをワールドクラスの一角として、安定の「オッズ」に至らしめて欲しいと思った。

ペナルティーキック・トライアル

「ストライク・ゾーン」のボールに、或いは、「ボール」であっても ❝故意に当たりにいった❞ 場合には、(ベースボールでは) そのまま「ストライク or ボール 判定」とされてプレイが続行される

「W杯」では、「VAR 判定」よりも、むしろ、「ペナルティーキック 判定」に胸が痛んだ…。

絶妙に組み立てられた芸術的なシュート(1点)さえ、ペナルティー・エリア内で ❝背を向けて避けた肘❞ に当たった(ひょっとしたら)❛偶然❜ で打ち消されてしまう、なんていう「不条理」が、あっていいものだろうか?

とかく、スポーツでは、❝それも ◯◯ のうちさ❞ などと自嘲される「判定」も少なくないけれど、(90分間駆け回って獲得した)「1点」の重みを考えたならば、「ペナルティーキック 判定」の ❝過剰裁量❞ は、プレイヤー や サポーター に対して察して余りあるルールではないかと思う。

過去に「シミュレーション 判定」というのが話題になった時もあったけれど、(確かに、❛連動するプレイの中で審判を下す❜ のは至難の業だとは思うけれど)、もう少し、( ❝コンクルーシブ❞ に)庶民感情に沿ったもので、(例えば、大相撲の「物言い」制度みたく)裁定が出来ないものかと、(て言うか)むしろ、こういう難儀な判定をこそ、「AI」による「ディープ・ラーニング」で克服できないものだろうか? と、思ったりした。

「萌え絵」の自由

って言うけど、行き交う男子の殆どは、❝鼻の下を伸ばして❞ 通り過ぎてるんじゃないのかな?

コミケ当日の「東京ビッグサイト」駅の構内とかなら、ともかく、始業前の学生、ビジネスマン、はては、冠婚葬祭を控えたオジサマ方の脳内を ❛助平色❜ に染めてしまうのは、❝如何なものだろう❞?

諺に、❝怠け者は、あらゆる「精進」を怠ける為に注(つ)ぎ込む❞ とかいうのがあった気がするけれど、ひと目見て「エロぃ」って分かるものを、❝高尚な 「屁理屈」を捏(ご) ね回して白(しら) を切ること❞ が法律家の務めじゃないと思う。

ひと昔前なら、そういう輩には、❝ビンタ×1~2回❞ 施して解決されていたものを、民度が上がったのか、斜め上まで行っちゃたのか、「論理的思考」なのか、「ディベート」なのか、面倒くさい世の中になったものだと思う。

案外、❝試されているんじゃないか?❞ と思ったりもしている。

『 (広告) 表現の自由』でどれだけ世間の「慣習」を蹴散らして、自分達に居心地のいい ❛ハート(💗)・マーク❜ で彩られた世界を押し広げられるか、みたいな…。

諺に、もう一つ、❝遠からずして元に帰る❞ というのがある。
細分化された議論は、「根っ子」に戻るのが解決の早道だと思う。

1ミリ判定

ベースボールでいうところの ❝ホームベースに掛かっていればストライク!❞ みたいなシチュエーションとなんか似ているかも。(ただし、ベースボールでは主審の「眼力」が絶対だけど…)

共通しているのは、❝選手はプレイ❞ に、❝審判は判定❞ に集中するということ。
(「百年に一度のプレイ」にどんな精密な判定器が用いられようと、「神の手」隠しにあっては為す術もない。)

忘れてならないのは、❝(ほぼラインを切りかけたボールに)無心で足を差し向けた「気持ち」❞ だと思う。
例えば、同じ場面が相手方(スペイン)に起こったとして、(誇り高い)彼のプレイヤーがそこまでして球を拾いに行っただろうか (?)、ということ。

呆然と球の行方を見送っていたら、得ることが出来なかった「チャンス・メイク」だったと思う。

ラリー・ジャパン

❝あの ◯◯ が走ったコースを自分も!❞ とか、

❝あの ◯◯ が △△秒でクリアしたコースを自分は何秒で?❞ とか、

山村の(プロドライバーでさえ手こずる「枯葉トラップ」の敷き詰められた)(地元のお年寄りも朝夕の所要に共有する)長閑な「県道・村道」に、この後、怖いもの知らずの輩を ‘夜な夜な’ 焚きつけることになるんじゃないかと、心配の種が尽きない。

「サーキットでは途轍もなく危険なことをしてるから、自分はもう公道では速度は出さない。」と、元・F1レーサーの中嶋悟さんが仰っていたことも思い返しつつ、❝レース・バトル が許されるのは サーキット・コース の上だから❞ という公共意識が、これから、どうやって若年層に受け継がれ得るのかと、甚だ不安…。

はたして、大村秀章・(愛知県)知事の ‘旗振り’ 誘致なのか、豊田章男・(トヨタ自動車)社長の ‘ゴリ押し’ なのか、(交通違反ワーストの)愛知県警・所轄長がよく了承したと思う。

水星の魔女 <前日譚>

❝昭和の❞ ロボット・アニメに、いったい、いつまでしがみつくのか(?)と思っていたら、今度は ❝この時期❞ に、「国家連合の対立をモチーフにした ❛新・世界大戦❜ 」を舞台に選ぶなんて、❝正気?❞ って思う。

たとえ、企画から制作までの期間を遡ったとしても、周囲を見回して、❝今は、ダメでしょ?❞ と ❝(ことの成り行きに)脅怖する(永井一郎・風)…❞

なんか、プロモーション・サイドはこれを、❛全世界展開❜ するって気張ってるみたいなんだけど、まず、『(EUの)倫理委員会』で引っ掛かるのは、時間の問題じゃないのかな?

翻れば、「宇宙の戦士」(ロバート・A・ハインライン)をモチーフにした件(くだん)の「ガンダム・シリーズ」が受け入れられたのは、平和で ❝惰眠を貪っていた時期❞ の近未来アニメだったからで、昨今の ❝グローバル・クライシス❞ を横目に、そんな薄氷を渡る様なテーマを、主役をヒロインにしてお茶を濁すくらいなら、いっそ、(サンライズの秘蔵っ子)「舞姫 Ⅲ」で、ライセンスも、❛フィギュア❜ 辺りに傾注しておいた方が、(「◯◯娘」に迫るくらいには)安定の採算が取れてたのでは?って思う。